Posted on 9月 13, 2012 in お知らせ

年に数回集う家族会、 「4代前の先祖は一体何をしていたんだろう?」などたわいもない話をしていた時、兄から、上野家や本家の書類が本家当主、上野 彌(わたる)さんの意向で京都府に寄贈され、現在、京都府立総合資料館に保管されているとのことを聞いた。

「近いうちに総合資料館に行って、先祖探しをしよう!」 ということで、先日、兄と一緒に府立総合資料館を訪問してきた。 そこで面白い資料に出会った。保管されている本家の資料の中、同志社から上野家に届けられた多くの書類だ。 下記に抜粋して紹介すると、

  • 同志社女学校規則 (1883年)印刷 備考:同志社社員 西京 新島 襄・山本覚馬・中村栄助、 兵庫県神戸 松山高吉、愛媛県今治 伊勢時雄
  • 明治専門学校設立賛成者姓名一覧(1884年)状物 差出人:明治専門学校 創立事務所
  • 京都看病婦学校設立趣旨(1886年)印刷 差出人:新島 襄 山本覚馬 中村栄助 新潟県 松山高吉 熊本県 伊勢時雄
  • 京都看病婦学校設立/演説 (1886年)印刷 内容:9月20日大日本私立衛生会京都支会開演の席上でのジェー・シー・ペルリ氏の演説 西京同志社 差出人:創立事務仮本部 京都市上京区寺町通丸太町上る 新島 襄
  • 同志社学院の卒業式挙行案内 印刷(1988年)英語普通科、神学科それぞれの卒業式順序 差出人:同志社学院 新島 襄
  • 同志社学院の卒業式挙行案内(1989年)印刷 差出人:同志社学院長 新島 襄
  • 同志社設立始末(1988年)東京秀英舎 印刷 備考:表紙は彰栄館 差出人:新島 襄

上記の他多くの文書が保管されていた。

その中から、新島 襄が上野弥一郎に送った礼状を撮影。 ※内容は明治20年夏、明治専門学校の創立費を募集するため、中村栄助、浮田和民、新島公義が舞鶴を訪問した時、3名の社員が世話になったことに対してのお礼状。 同志社々長 新島 襄 と書かれている。 新島 襄が上野弥一郎に送った礼状   新島八重子から上野弥一郎へのハガキは、新島 襄の葬儀会葬の御礼。 新島八重子から上野弥一郎へのハガキ   同志社の多くの関係書類を目の当たりにし、思い出したのは父の言葉。 私の父、上野辰三が生前に「同志社」と上野家は関係が深いといっていたこと。 同時に、昔のことだからもうあんまり関係はないともいい、深くその話を聞いたことがなかった。 私を含め3人の息子を同志社中学・高校・大学へ進学させてくれた父。 偶然に出会った上野家と同志社との数多くの書類を前にしばし、今は亡き、父の面影を偲んだ。 文責:上野聡司(籍名 修) ※写真撮影は本家、京都府立総合資料館の承諾を得ています。